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まだおべつおラジオ

日々小実験

『フロイト思想を読む』で生きる原理についておもう

フロイト思想を読む』竹田青嗣・山竹伸二(NHKブックス)  フロイトは興味があり、『夢判断』や『精神分析入門』、それに解説書もいろいろ読んだがいまいち腑に落ちなかった。  そのフロイトをを竹田青嗣が解説してくれそう、というので読んでみた。  読んでみると、少なくとも私にとっては重要な本のように思えた。  そして、その重要性は主として山竹伸二の書いた部分に多かった。  フロイトの考え方のポイントは、人間の存在は常に欲望の葛藤をめぐる運動にある、という。  
 フロイトによる無意識の発見とは、人間が分裂した欲望の葛藤を抱えた存在であること、この葛藤こそ人間の行為を大きく左右していること、そうした人間の存在本質の発見だったのである。(p110)
 欲望とはどんなものか。フロイトは「性的欲望」と「道徳心」の葛藤だとしたが、山竹はさらにそれをこう分類する。
 このようにフロイトが重視した性的欲望と道徳心の葛藤は、「身体的快」「関係的快」への欲望と「自己価値」への承認欲望の葛藤として捉えることができる。 *「身体的快」・・・身体の快感や安全の確保など、からだの快適性全般が対象  「関係的快」・・・愛情や友情など、他者との関係性における喜び全般が対象  「自己価値」への承認欲望・・・自分の存在に価値があると実感する喜びが対象。厳密には「自己価値」への欲望とは「自己価値への承認欲望」である (p149。*はp147から引用)
 そして、この欲望についてはフロイトの性発達論にあてはめて、次のようなプロセスが想定できる、という。
 人間は生まれた直後は快・不快に左右され、まず「身体的快」を求める存在だが、すぐに母親との関係性に喜びを感じるようになり、「関係的快」を求める存在となる。そして次第に、「母親に愛される自分」「母親に認められる自分」が意識され、「自己価値」の承認を求める存在となる。(p151)
 親との間でのルールを守ることによって自分には価値がある、と感じることができるようになるが、大人になるにつれ親以外の新しい価値観やルールにより、それまで絶対的だった親のルールや価値観が修正され、価値の一般性を吟味する際に想定される他者、「一般的他者」の視点を得ることができるようになる。  これは納得できる話だと思った。  私は、どこかに一般的他者の視点を置いて、それに誉められるような行動をとろうとしている。きっと「一般的他者」はひとによってまったく異なるものなのだろうけれど。  さて、この一般的他者の視点をどのようにして獲得するのか。  フロイトの「エディプス・コンプレックス」がその契機なのだ、という。
 男の子が四、五歳になると母親に対して性愛願望を抱き、独占したいと感じ始める。すると父親は邪魔な存在になるため、無意識のうちに憎しみを向けるようになる。(中略)しかし、やがて男の子は「父親に逆らえば去勢される」という不安から、母親への執着を断念し、エディプス・コンプレックスは終結する。(p161)
 父親がこどもの近親相姦願望を禁止し、子供がそれを受け入れるという話は、言わば二者関係の甘えを脱し、社会のルールを受け入れる象徴的な物語として受け取る必要がある。
 エディプス・コンプレックスは単に社会的関係や社会性の獲得のみを意味するのではなく、自分の行為に誰もが認めるような価値があるのか否か、その一般性を判断するような視点をもたらす契機として理解できるのである。(p168)
 一対一の関係においてはそれが価値のあるものなのか、確信を持つことができない。一対一の閉じた関係に第三者の視点を入れること、それは自己価値への承認欲望を満たすことができる契機となる、というのだ。  これもわかるなあ。  自分だけが楽だとか、気持ちよくても、それが周りの多くからブーイングを受けるような行為はいやだもんねえ。
 このように分裂した欲望対象の中でもとりわけ人間的欲望と言えるのが、「自己価値」が承認されることへの欲望である。これは自我の幻想性に関わる人間独自の欲望と言ってよい。人間は自己について幻想を抱く存在であり、私たちが思い描く自己像や自己物語は幻想性を含んでいる。この自己像は他者との関係の中で絶えず刷新されるのだが、それは自分が他者に承認されるような存在か否か、絶えず自己価値を気にかけているからだ。私たちが「自我」と呼んでいるものは、このように他者関係において編まれた幻想なのである。(p184)
 自我はエス、外界、超自我の三者に要求を突きつけられ、葛藤に苦しめられるのだ。(p193) *エス・・・混沌とした欲望の集積  自我・・・理性を代表するものであり、外界(社会規範、世間的な価値観)の影響を考えてエスの衝動を抑制しようとする。  超自我・・・内的規範。無意識的な自己批判、良心、罪悪感  つまり、「エスと超自我の葛藤」および「エスと外界の葛藤」は、いずれも「『~したい』と『~ねばならない』の葛藤」に還元できる。(p198)
 ここで『~ねばならない』という自己ルールは親子関係から強く反映されたものだが、これが一般性に乏しいものであると、いわゆる心の病や、人間関係の軋轢を生むものになってしまう。成長に伴ってうまくそのルールが修正、変更されてくれればいいが、それが「無意識」にあるかぎり、つまり自覚できていないと、問題になるケースが多いという。 つまり、「『~したい』と『~ねばならない』の葛藤」を自己了解し、きちんと向きあえば、どちらが納得できるものなのか、考えられるというのだ。
 人間は分裂した欲望を抱え、欲望と当為の葛藤に悩まされる存在だが、しかしこのことを自己了解し、絶えず自由な自己決定によって可能性を切り開く存在でもある。フロイト理論から見えてくるのは、まさにこのような人間像なのである。(p212) *当為・・・『~ねばならない』
 しかし「一般的他者の視点」があれば、具体的な他者の承認が得られない場合でも、自分の行為に価値があると信じられるようになる。「今は周囲の人間に理解されなくとも、いつかどこかで必ず承認されるだけの価値はある」と確信できる。(p219)
 信頼できる二者関係における相互幻想的自己了解。そして、第三者を意識した「一般的他者の視点」による自己分析。私たちはその二つの間を行き来しつつ、自己像と自己ルールを刷新しながら生きているのである。(p220)
 すごーくながーく引用してきてしまったけれど、まさに生きることというのはこの言葉に尽きてしまうような気がする。  ひとりではつらい。だれかに自分をわかってもらいたい。信頼できる誰かがほしい。それは自分のためである。そしてそれを通じて、また別の視点から第三者を引き入れて、自分のことを考えなおす。  毎日毎日、そんなふうにして生きているのだ、とこの本を読んで了解したのだ。  このシンプルな考え方を、しばらく生きていくうえでの原理にしていってみようかな、とちょっと大げさに思ったりしたのでした。 フロイト思想を読む―無意識の哲学 (NHKブックス 1108)