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日々小実験

『井戸』を読む

『井戸』オネッティ(集英社ラテンアメリカの文学」5巻所収)  1984年10月15日第1刷発行と書かれた「ラテンアメリカの文学 5」の『はかない人生/井戸/ハコボと他者』については、もう15年くらい前に友人の引っ越しを手伝ったときに不要だからといってもらった本だった。  友人はラテン音楽がとても好きで、その流れで集英社の「ラテンアメリカの文学」シリーズを持っていたらしい。  あと何冊かもらった。  その中には『族長の秋』などがある。  いつか読もうと思っていたけれど、読めずにいた。  ふと、オネッティのこの巻をぱらぱらめくっていたら、出だしから引き込まれた。
 先ほど部屋の中を歩きまわっていたら、ふと、この部屋をはじめて見るような思いがした。寝台が二つ。クッションが破れ、がたのきた椅子が二つ、三つ。窓枠には、ガラス代わりに陽に焼けた古新聞が張ってある。  暑さをがまんしながら、昼間から寝台に横たわっていることにうんざりして、私は上半身裸のまま、部屋の中を行ったり来たりし始めた。午前中に天井が吸収した熱は、午後のこの時間になると、どっと室内に吐き出される。私はうしろに手を組んで歩いていた。そしてタイル床を叩くサンダルの音を聞きながら、腋のにおいを嗅いだ。首を回して、交互に腋のにおいを嗅いだ。鼻持ちならぬにおいに、しだいに顔がゆがんだ。首を回すたびに、あごの無精髭が肩の皮膚をこすった。  私は不意に、あるささいな情景を思い出した。ひとりの娼婦は、左の肩先の赤くただれ、今にも破れそうな皮膚を私に見せながら、こう言うのだ。「まったく、どうしようもない下種な連中ばっかりよ。一日に二十人も来てさ、誰も髭を剃ってきやしないんだから」
 夏のだらだら感、突然のフラッシュバック。それに自分の腋のにおいが鼻持ちならぬ、というくだらなさ、ユーモア。  次の一文で、ああこれは私が今読まなくてはいけないんだな、と思った。
 ああ、タバコがない、タバコがない。いまここに書いているのは自分の回想録だ。人間は四十歳になれば、それまでの人生をふりかえって、どのように生きてきたのかを書かなければならない。。興味深い出来事に彩られているのであればなおさらのことだ。そんなことをどこかで読んだ覚えがある。
 主人公と、わたしじしんがたぶんかなり近いのがこの短篇小説に没入した一つの要因だろう。  主人公の「私」はだらだらとしながら、妄想癖があり、しかしその妄想のせいで世間とうまくやっていけないまま今に至る四十男。  その「私」が書く回想録。  わたしじしんが書くべきものを代わりに「私」が書いてくれているような錯覚に陥った。  印象的な文章。
 愛は不思議で不合理なものだ。そして理解しがたいことに、あらゆる人の魂を訪れる。しかし、不思議で不合理な人はそうざらにいない。いても、ほんの短い一時期、つまり青春時代だけがそうである。それを過ぎると妥協をおぼえ変貌する。
 二年前、私はついに幸福をさがしあてたような気がした。ほぼ完全な懐疑主義に到達したように思った。ご飯を食べ、服を着、タバコを喫う、ときおり本を読む、それだけで充分幸せを満喫できると思った。あとは暗闇に向かって目を開き、適当な夢を見ればよかった。この簡単なことに気がつくまでぼう大な時間を要したことが不思議でならなかった。だがいまは、自分の生というものは、一秒ずつ刻まれる時間がただ単に通り過ぎてゆくことにすぎないと感じている。
 すべてが失われてしまったあとの静けさ,諦念。  しかし、「私」はたぶん完全に死んではいない。  そうでなければ逆にこのような文章は書かれない。  こんなふうに世界を認識できればきっと楽なのだろう、という希望に思える。  そして、虚無の中から不意打ち的に、なにかがやってくることに、そっと耳をそばだてているのではないのか。      オネッティはウルグアイの作家。  1994年に亡くなっている。  他の小説も読まないといかん。
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