まだおべつおラジオ

日々小実験

『族長の秋』

『族長の秋』ガルシア=マルケス 皷直訳(集英社)  この本はたしか高校生のときに図書館で借りて読んだ記憶があるのだが、きちんと読んだ、という記憶がない。  ただ、すごいぞすごいぞ、と思いながら読んだことを覚えている。  今回読み返してみたら感想は、すごいぞすごいぞ、というまったく同じものだったから、少しがっかりもする。  なにがすごいのか。  高橋源一郎が、こう書いている(らしい。孫引きなので)。
 マルケスは好きな作家です。『百年の孤独』を読んで、これは大変な作家だな、と思って以来の読者なんですが、マルケスを読んで一番驚かされるのは一般的に考えられているのとは逆で〝技術〟的なことなんですよね。『族長の秋』でいうと、文章のスピードがものすごく速いんです。これが作品の特徴だと思うんですけど、最初の一行に足をのせたら、超高速のエスカレーターに乗ったように読者を運んでいってしまう。これは『千一夜物語』とか、ラブレーなんかでもそうだけど、奇妙な話の面白さによってひっぱっていくんじゃなくて、文章を人工的に処理する─例えば言葉をものすごく省略するとか、因果関係をとっぱらうとかいった技術的な処理をして、速度感を与えているんですね。『百年の孤独』も速いけれど、『族長の秋』の方がもっと速い。『百年の孤独』は自然に読みうる文章の非常に速い典型というふうに僕は思ったわけです。 『ぼくがしまうま語をしゃべった頃
(「ガルシア=マルケス活用事典」からコピーさせていただきました。) 「超高速のエスカレーター」とはさすがで、まったくそのとおり。 「『百年の孤独』が自然に読みうる」ならば、『族長の秋』はあまりにも早すぎて足を持って行かれて後頭部をがんと打ってしまいそうな、そんなスピードなのです。  一例。
硝石の砂漠地帯の彼方から吹く風が、窓からどっとなだれ込んで、大勢の幼い者たちの歌声をおが屑のように寝室にぶちまけたのだ。幼い者たちは、戦場に赴いた騎士の身を気遣い、嘆きと悲しみの声を上げていた。塔に上がって、騎士が帰ってくるのを待っていた。帰って来るのを見て喜んだが、ビロード貼りのお棺の中だと知り、嘆き悲しんでいた。大勢の声だが非常にかすかなものだったので、星がうたっていると思えば眠れたはずなのに、彼は頭にきて、ぱっと起き上がり、叫んだ、もうたくさんだ。あの子供たちをどうかするか、このわしをどうかしてくれ、と叫んだ。どうかされたのは、結局、子供たちのほうだった。夜の明けきらぬうちに、セメントを満載した荷船に子供たちを乗せるように命令したのである。歌をうたう子供たちは領海の端まで連れていかれた。そしてなおもうたい続ける中で、苦痛を感じるいとまもなくダイナマイトで吹っ飛ばされた。この野蛮な犯罪を実際に行った三人の士官が直立不動の姿勢を取り、閣下、ご命令どおりにいたしました、と報告すると、大統領は、二階級特進の処置をとると同時に勲功賞を与えた。しかしその直後に、階級章を剥奪した上で、一般の犯罪人として銃殺させた。出すのはいいが、実行してはならん命令もある、ま、気の毒なことをした。(p97)
 どこから引用すればいいものやら、どこまでで切ればいいのやらわからなくなるが、とりとめもなくなるのでこのへんで。  この引用部分だけでも、主語が転々としていき、読むほうも慣れるまではわけがわからなくなることがわかる。  しかしそのうちに、描写というのはこういうほうが息苦しくなくていいな、と思うようにもなってくる。  ストイックに一人の視点から描写するのではなく、ピカソの絵のようにいろんな角度からの視点を平面に収斂させてしまう方法。  高橋源一郎のいうように、技術的な処理がすごいのだ。たぶん。  もちろん原文では読めず、翻訳なのだが、きっと同じようなリズムなのでしょう。  詩に近い。  だけど詩よりははるかによみやすい。    死んでしまった大統領についてひたすら書かれた小説なのだが、大統領がいかに誰かをうまく愛せなかったか、いかに誰かに愛されなかったか、ということが文章のスピードの中で浮かび上がってきて、泣けてきます。  たぶん高校生の頃にはそんなふうには思わなかったな。  また、いつか読み直したい。  なんどか訳が新しくなっているみたいなので。 (今回読んだのはいちばん古い集英社ラテンアメリカ文学版でした。)
族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13) (1983/06/08) ガルシア=マルケス鼓 直 商品詳細を見る
広告を非表示にする